我が家はオーストラリアにあるのですが、ごらんのように配電盤は外にあり、ケーブルにまったくアクセスできません。そこで、天井裏に登り、配電盤から引き込まれた電源ケーブル(コンセント用と温水用)を束ねて、そこに雷智を3個巻き付けました。
いや、最初はなんの変化もないようだったのですよ。ところが、ある日ふと気づくんですね。なんだかコーヒーが苦くない。テレビの音がやかましくな い。ご飯の色がみずみずしい。そういや家の中が明るいなあ。インバーターエアコンのモーターの最高域の回転数が上がってひゅいんひゅいん軽やかだ。シャワーから出るお湯がやわらかい。
そんな日々、スピーカーコードに天音をセットして、子供たちと家内が留守で私が家にいられる金曜日を待ちかねて音出ししたオーディオの音は……、ほほー、 ははー、むー、うー、おいおい、えー? うわー。 なんだか言葉になってませんが、無理して言葉にすると、いつも使ってるYoshii9を、パワーアップ した新品に買い直したようだ、というか、つまり我が家のオーディオシステムの美点をまるごと上質にグレードアップして、さらに欠点を補って……、えーい、 もどかしいなあ。
わたしは、このYoshii9というスピーカーに以前からすっかり惚れてるわけですが、今、音を出しつつ目の前にある(というか消えているから「ない」の か)のは、このスピーカーの「ありうべき」姿なのですよ。このスピーカーに期待しうる音場の、予想を超えた理想の姿を見た(聴いた)ような気がします。とくにこの低音はありえません。今までこのスピーカーは低音のクオリティーはあっても量感には期待できないものだと思っていましたが、この量感は何なんで しょうか。家の外で何か低い音のものが鳴っているんじゃないか、と思わず窓を開けて外の音を確認したくらいです。
何だか「何を鳴らしても楽しい」と言っても信じてもらえないかもしれませんが、悲劇的な音楽や、ひずませたギターシンセサイザーの音も、単に悲しさや音の歪みを聴かせたいんではなかったんだなと思わせられます。作曲家は、演奏者は、録音技師は、この音楽を、ある種の「喜び」とともに作っているんだという実感がそこに聞こえて来ます。この人達は苦しさにうめきながらこの音楽を作ったわけじゃないんだ、と。
あーあ、今日もそのうち家の連中が帰って来る時間になって、音楽はまた一週間おあずけです。週に1日しかない私が全部聞き直すには五六年かかりそうな音楽ソースがあるというのに。全部聴き終える前にまたGe3から別のすごいのが出るんでしょうねえ。