時間的な視点

日頃ダンナと話しをしていて、よく話題にあがることの一つに「視点」というものがある。

どのような視点で考えるかによって、物事の捉え方は変わってくる。
ゆえに、複数の視点で考えることがとても大事。
その視点の一つに、時間的な俯瞰というものがある。
10年や20年のスパンで視るのと、百年、千年、万年というスパンで視るのとでは全く違ってくる。
だけど、時間的スパンをグッと広げて俯瞰するには、それなりに訓練が必要なのかもしれない。

そんな話をしていて、ふと思い出したことがある。

小学生の時に「太陽のひみつ」という本を読んだ。
親が選んで買ってきてくれたのか、私がおねだりして買ってもらったのか定かではないのだけど、何となく、表紙の絵に惹かれて買ってもらったような気もする。

内容はそのまんま、ガッツリ太陽についての話なんだけど、小学生の私が衝撃を受けたのは・・・

太陽は46億年前に生まれ、数十億年後には死んでいく

ということだった。
当たり前にあるはずの太陽が、いつかこの世から無くなってしまう。
生まれてから死ぬまで百数十億年という、自分には全くわからない、途方も無い時間だけれど、確実に訪れる事実なのだということを小学生ながら必死で受け止めようとしたのだ。

自分が実感できない世界があることを知ったのは、あの時ではないかと思う。
自分の目の前の現実や、自分の生きる時間なんて、ほんとに小さな小さな一粒でしかない。
そんな世界観を知ったのだ。
そして、俯瞰できる時間的スパンが一気に広がったのではないかと思う。

だからといって、何十億年の視点で物事が考えられるかというと、まさかそんなことはない。
いろいろな視点を持つにはやはり訓練が必要だ。
その視点に立って考えるということを何度も何度もすることによって身につくもの。
何億年、何十億年の単位で考えることなんてほとんどないわけで、せいぜいあっても百年か千年単位だろう。

だけど、あの小学生の時の衝撃がなければ、百年、千年の単位も自分にとっては「考えても意味ないんちゃう?」と思うほど大きな単位だと、今も思っていたことだろう。
何十億年というスパンを一度でも考えたことがあるからこそ、「あれに比べれば」ずっと身近な単位と思え、冷静に考えられるのだと思う。

・・・そう考えると、SF小説が好きな人は時間的スパンが大きな視点を持っているかもしれないですね。